舞台裏のダイコンたち after
東京で演劇活動を行っている大沢ギンペイのブログです。趣味とか演劇とかいろいろと。
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スキーの「日本いじめ」を考える
 2016年の夏季オリンピック候補地に、東京と福岡が名乗りを上げているそうですね。
 さて、少し前に終了した冬季オリンピックですが、まさに閉会式の次の日、当ブログではこんな事件がありました。その時おシャカになった原稿を、本日は再現してみようと思います。
 読み物としてはイマイチかもしれませんが、普段の冗談が特に面白いという訳でもありませんし、きっと構わないでしょう。

 冬季オリンピック競技の華の一つに、スキーのジャンプ競技があります。この競技、長野あたりまでは、日本が好成績を残していたのですが、今回のオリンピックでは、メダル争いに加わる気配も見せてくれませんでした。
 日本の不調の原因は、アンチ日本なルール改正である、という話があります(ソースの例)。
 ルール改正で、日本人が履ける板が短くなった、というのは知っていました。けれど、長身の選手が履ける板が、より長くなっていた、というのは、初耳です(この競技では、より長い板を履いた方が、揚力を稼ぐことが出来て有利。)。

 こんなルール改正は不公平だ、間違っている、という人は多いでしょう。少なくとも私はそう考えています。
 でも、今回は逆の見方で考えてみたいと思います。

 そもそも、ルール設定に「公平」「不公平」という考え方はできるのでしょうか?
 一般的な「公平」や「不公平」は、法律や社会常識などの「ルール」によって規定されます。だから、ルールの善し悪しを決めるには、「ルール規定に関するルール」を考えなくてはなりません。

 スポーツの「良いルール」の条件は何でしょうか。
 私は、以下の2点がその条件だと思います。

  ・面白いこと。
  ・安全であること。

 至極素直なことを言ってるでしょう?

 スポーツは現在、娯楽として考えられている、ということで間違いないでしょう。射撃競技や格闘技などは、狩猟や戦争のための訓練の流れを汲んでいるのでしょうが、一部の人を除き、そのような「実用ための訓練」としてスポーツをしている人は少ないはずです。
 スポーツが娯楽であるならば、それには「面白いこと」が必須です。
 面白い、というのには2つの側面があります。「プレイして面白い」ということと、「観て面白い」ということですね。前者を重視したのが、テニスやサッカーなど、イギリス系の競技であり、後者を重視したのが、野球やホッケーなど、アメリカ系の競技である、と、この前聞きました。後者の方がより複雑なルールをとる、とか。

「面白い競技」を目指して作られたルールの例としては、といっても、ルールのほとんどがそれを目的にしているわけですが、サッカーのオフサイドなどが挙げられるでしょう。
 これは、「手を使わずに、決められた枠にボールを押し込む」という、面白いルールがあっても、誰もいないゴール前に、パスでボールを運ばれたのでは、面白さが半減する、だから取り締まろう、というわけですね。

 テニスのサーブの規定なども、なかなか面白いルールです。
 コートの一番奥から打たないといけない、そしてネットを越えたら、ある程度ネットに近い、決められた範囲でバウンドさせなくてはいけない。だから受け手にボールが届いたときは、ある程度失速しているし、左右の範囲も限られている。それにより、サーブだけでは勝負が決まらず、でもサーブを打つ方が有利、というバランスが出来てくる。

 これらのルールは、一つには、局面ごとのプレイが、一種類に凝り固まらないため、という役割を担っています。「この状況ではこれをするのが最適」と、完全に決まってしまっていたら、つまらないですからね。(とはいえ、戦術が洗練されてくると、「無限の戦術」ではなくて、加算的な型が、正解として出来てきたりするわけですが。)

 そして、もう一つが「安全」という問題です。
 あんまり怪我をしやすくては、楽しくありません。スポーツはもともと娯楽ですから、それは良くない。「見せる」という、プロの側面から考えても、安全を無視したルールでは、選手がいくらいても足りません。だから、例えば、無制限に凶器を持ち込んで良い競技はありません(無制限に、というのは、野球のバットやゴルフクラブは、持ち込みが許可された「凶器」と考えられるからです。)し、接触が行われるなど、危険が予測される競技では、プレイヤーが怪我をしないようなルールが、いろいろ設定されています(サッカーなら、頭がある近くに足を上げてはいけない、とか。)。接触を伴わないスピード競技などの安全規定は、知らないのでコメントできません。お粗末。
 この「安全」というのは、怪我をしないことでスポーツを「面白く」する、という機能も担っていますね。

 とまぁ、ルールの効用をこのようにみてきた訳ですが、ジャンプのルール改正は、競技を「面白く」または「安全に」したでしょうか?
 私にとっては、「面白く」はなっていませんね。私が喜ぶのは、日本選手が良い成績を残す場合であって、他の結果が変わってもよく分かりませんから。あんなバンジージャンプより恐ろしそうな競技、自分でやることはまずないでしょうし。
 次に「安全性」の話。
 これはですね、いくらか理に適っているようです。特にウェアに関しては、ルール改正で身体に密着したウェアが強制されるようになって、無理な減量のメリットを減らしたことで、選手の競技寿命が伸びた、という記事を、いつか見ました。

 ルールは、その競技で「何を競うのか」を規定します。
 今、日本が不利になっているのは、ルールが「体力の差を、道具を使いこなすことによって乗り越えられるルール」から、「体力の有無がより強く結果に反映されるルール」になって来たことによるのでしょう。

 体力の有無を競うルールになった、というのは、一概におかしいとは言えません。スポーツというのはあるバランス・種類の体力・技術をもとめられるものです。体力が全く問われないスポーツというのは、今思い浮かびませんし、技術を問われないスポーツ、というのも無いと思います。もっとも純粋に体力が問われていそうなウェイトリフティングも、自分の筋力を効率的に発揮する技術を問われているはずです。
 このように、「体力重視のルールになったから、このルール改正はおかしい」という意見は通りません。体力重視となることによって、面白さや安全が損なわれる、というのでなければ、ルール改訂への異議は正当性を持ちません。

 と、ここまで、『日本叩き』と言われるルールを弁護するように語ってきましたが、これらの考え方と矛盾せず、『日本叩き』を非難することもできるのです。

 さきほど、「ルールは、求められる技術や体力の種類・バランスを規定する」ということを書きました。
 もしそれが、「ルール決定者の身内(国籍・地方・利害関係などの所属)が持っている技術・体力に、最も適したルール」を目指して調整されているとしたら、どうでしょう?
 これは充分に、「競技の面白さを損ねる」要因となり得ます。
 ルール決定者が身内の選手を勝たせようと、ルールを調整するのでは、努力の実りとしての勝利、という、やる側にも見る側にも非常に重要な「面白さ」のファクターが否定されてしまいます。
 純粋に「運」を競う面白さ、というのはあり得ますが、「どんな地域に生まれ落ちるか」という運を一生引きずるのでは、たまった物ではありません。

 とまぁ長くなりましたが、言いたい事は一つです。
「日の丸飛行体の復活を祈る」
(深夜につき最後の詰めが甘い感があります。申し訳ありません。:ギンペイ)
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