舞台裏のダイコンたち after
東京で演劇活動を行っている大沢ギンペイのブログです。趣味とか演劇とかいろいろと。
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ニホンゴはどう難しいのか
 し~け~ん~終わったああ!!

ミ「おつかれさん。何教科あったんだ?」

 2教科。

ミ「……。前回の記事は、多少の反響(というか反応というか)があったみたいだな。」

 あったよ。
「びっくりするほど非常にまともな内容の記事ですね(笑)」だってさ。
 これじゃあまるで、普段の記事がまともじゃないみたいじゃないか。
 ほらこんなにまともな記事が……記事が……。

ミ「去年の12月のログまで漁って調べたみたいだが、胸を張って『まともだ!!』と言い切れる記事はあったか?」

 なかった……。

ミ「現実はかくも残酷なものよな。」

 で、もう一つ。別の読者さんからの反応。
「辞書にのってりゃ『正しい』のか。言葉は変化するものだろう。」と。

ミ「尤もだな。」

 尤もだ。
 まあ、難しいことを考えてしまえば「正しさ」を規定するのがどんなに大変か。
 では、持論を展開してみようか。

ミ「また読者が逃げるぞ。」

 すんません、堅苦しい議論が嫌いな人は、今日の記事からは逃げて下さい。
 そんなに高度なことが書けるわけじゃありませんけど。

 言葉の世界における辞書っていうのは、社会における法律に喩えることができる。なんらかの権威主体(法なら国会、辞書なら日本語学会?)があって、生活のためのルールを決めている。これは当然人為的なものであって、全ての主観にとって「完全に正しい」なんていうことはあり得ない。ただ権威主体が「『これこれ』を『正しいと規定する』」っていうだけの話であって。
 ただし、これは法や辞書が無意味・無力であることとイコールではない。法を完全に遵守してるひとは少ないかもしれないけど、完全に無視している人だって滅多にいるもんじゃない。
 例えば。

「信号が赤の時に横断歩道をわたるのは、道路交通法違反。でも、車がまるで通っていなければ、そのくらいいいじゃないか。」

 というのを、日本語の問題に置き換えてみる。

「助詞『れる』ないし『られる』を使って可能を表現するには、五段活用動詞の場合を除き、『られる』を使うのが、辞書的には正しい。でも、『れる』の方が可能の意味が明確になるし、基本的に『れる』でいいじゃないか。」


ミ「……分かりづらいな。」

 要するに「『ら抜き言葉』でいーじゃん。実はそっちの方が便利だったりするんだぜ?」と読んでくれればいいや。

ミ「便利なのか。」

 便利だよ。詳しくは説明しないけど、『ら抜き』の方が意味の混同が起きにくくなってる。「今は認められていないが、『ら抜き言葉』は進化の結果生まれた言葉だ」って、ばっちゃ中学時代の国語の先生も言ってた。
 このとおり、辞書的な正しさの普遍性は、確かに微妙。「犬も歩けば棒にあたる」なんて、棒は元来「災難」の意味だったのが、誤りから転じて「幸福」も示すようになったくらいだし。「あたる」の語感が幸せそうなことから、だってさ。(つまり、良い意味でも悪い意味でも使える様になった。)
 逆に悪い意味を持つように変化したのは「お仕着せ」だな。
 もともとは江戸時代の商家で、奉公人に与えるボーナスみたいな着物が「お仕着せの衣装」だったのに、「おし」が「押し売り」みたいな語感を想像させるせいで「型通りに押し付けられたもの」っていう悪い意味になったらしいよ。平成教育委員会で言ってた。

 ちょっと脱線したな。
 じゃあ今度は、法と辞書が確実に力を持つ場合を考えよう。

「司法によって拘束されている人間が、情状酌量の余地のない状況で故意に殺人を犯したならば、懲役等の罰則が下される。」

ミ「重いな。」

 ごめん。法律は専門じゃないから、「絶対に適用される場合」の上手い例えがみつからなかった。
 次は言葉の例。こっちは軽いよ。

「『UFOを踏みつける』という表現をした場合、世間一般では、『主役を演じる』ことを表さない。」

「なんだこれは。」

 当たり前だろう?

「当たり前だ!」

 法や辞書は、こういう当たり前のことを規定してくれてる側面もあるわけよ。
 そして、複数の主観が食い違い、紛争(もめごと)が起きた時には、ルールという『特別な主観』が、とりあえずの指針を示してくれる。
 お互いにルールを守っていればもめごとは減るだろうし、こちらがルールを守っていれば、もめた時に権威や権力が自分を守ってくれる可能性が高まる。

 で、次の問題が、それらのルールを遵守してさえいれば、もめごとは起きないかということ。
 答えは否。断じて否。
 具体例は面倒だから挙げないけど、世の中には「法整備の不備」だの「法律の抜け穴」だのと嘆かれてる事例が山のようにある。法を守っているからといって、社会的に正しいとは限らない。
 言葉にも同じことが起きる。
 良い例が今回の「どくせんじょう」の話であり、もっと言うなら、人の『誤り』に文句を付けることだって「正しさにこだわってよけいにもめる」ケースだ。
 ルール(辞書的正しさ)を『振りかざす』ことが社会的に好まれるとも限らないし(法や正義を「振りかざす」って、そもそも否定的な意味でしか使われないし)、一般に使われていない「正しい」言葉を使ったら、「それ、間違いじゃないか」と指摘される危険すらある。「正しい意味」で、呆然としてる人を「憮然」と形容したりしたら、「憮然」って言葉を知ってる人の大部分は「誤り」だと感じると思うね。

 で、言葉に関する私の行動指針はどうなのかというと。
 感情的な問題として、「誤り」と知っている言葉は使わない。気持ち悪い。車が通っていなかろうと何だろうと、信号付きの横断歩道なら青信号でわたろうよ、というような主義。(実際の横断歩道では、車が来てなきゃ渡ります。)
 そして、感情的な問題に加えて功利的な問題として、周りに「誤り」と見なされそうな言葉は、辞書的に「正し」かろうと避けておこうとも考えてる。特にブログや脚本のような、表現者として一対多で臨まなければならないステージでは。
 一対一で話してるなら「それ間違いでしょ?」「いやこれでいいんだよ」と言える場合もあるでしょうし、そもそも問題にすらならないことが多いんでしょうけど、一対多だと「あいつ間違ってるな。」と一方的に思われて終わりという危険が、あまりにも大きすぎます。

 辞書的ルールの逸脱に関しても、一対多のときにはより気をつけるというのは変わりません。上と同じ理屈です。
 こうして私は、前回の記事の結論にたどり着く訳です。

 あまりにも誤用が定着した「間違った日本語」を避けるためには、「正しい表現」をこころがけるのではなく、表現自体を避けなくてはいけないのですね。辛いです。

 ガッテンしていただけたでしょうか?
(ギンペイ)
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