舞台裏のダイコンたち after
東京で演劇活動を行っている大沢ギンペイのブログです。趣味とか演劇とかいろいろと。
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「重いメディア」としての脚本考
 ※今日はオチもない、ちょっとだけ真面目な話です。ご了承下さい。

 今、東大は駒場祭の真っ最中です。ここ二日、一応見に行ってます。常に一人で。……ああ一人さ。文句あるか。

 ダブルダッチサークルのパフォーマンスと、友人がヴォーカルをしているバンドの演奏を見てきました。
 ダブルダッチと歌という、二つの表現形式。演劇をやっている人間からすると、どちらもちょっと羨ましいところがあります。

 まぁ、簡単に言うと、お客さんの拘束時間が少ないんですよね。

 演劇は、お客さんに「劇場に来てもらって」、60分を越える作品を「最初から最後まで観てもらって」、やっと一つの作品を観てもらえることになります。全部を観てもらわないと、如何せん伝わり切らない部分が出てきます。
 それに対して、ライブは5分やそこらの曲の詰め合わせです。当然、ライブ一回が独立の作品という見方はできますが、作品としての最低単位は、やっぱり一曲なのだろうと思います。

 拘束時間の点で、ダブルダッチは、より恐ろしい。
 客として見るに、彼らのパフォーマンスの最低単位は、ほんの数秒だと私は考えています。
 仮に一時間、彼らがパフォーマンスを続けていたとしても、ほんの数秒脚を止めて、一回の宙返り、一回のマックスを観るだけで、お客さんは楽しめますから。

 お手軽さという点で、演劇はこれらに勝てません。

 あと、歌にはもう一つ羨ましい点があるんですよ。

 歌詞です

 脚本家としてこの2年間活動してきて、「歌詞」の持つ力には畏敬の念すら感じて来ました。
 考えてもみて下さい。
 脚本家は、100分の作品を構築し、クライマックスの「いい台詞」を最高に盛り上げるために、伏線を張り、キャラクターを描き、ストーリーを紡いでおきます。私は「精密な脚本」を目指すスタイルなので、伏線を張る時や、伏線を観客が聞き逃す・忘れるリスクを考える時は、相当の注意を払います。
 全部で5分の見せ場の為に、残りの95分を書く。それでも、見せ場がちゃんと盛り上がるのかは分からない。ある意味お客さんに対しても、「5分を楽しむためには、95分をきちんと見てもらう」必要があるわけです。

 ところが、歌詞は。
 脚本だったら、95分を積み上げたうえで、やっと「良い台詞」が心に響くのに。
 メロディーラインと楽器の力を借りて、全部で5分の曲で、お客の心をかっさらっていくんです。
 歌詞は詩だけに、全てを語りはしません。省略された言葉によって、聞き手の心から共感を引き出し、聞き手の能動的な「思い」を取り出すわけで。
 歌詞を書くには、脚本執筆には無い難しさがあるでしょう。現に私は歌詞なんて書けません。
 でも、脚本しか書けない人間が「『歌詞』は、ずるい。」と感じてしまうのも、自然ではないでしょうか。
(歌はいいねぇ。:ギンペイ)


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