舞台裏のダイコンたち after
東京で演劇活動を行っている大沢ギンペイのブログです。趣味とか演劇とかいろいろと。
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気持ちは通じると信じる
 団長。
 小屋入り前に、ささやかな喜びを感じている場合ではない。
 そのくらい大変なことを、君は言明してしまった。
 ここのコメント欄でね。

 引用させてもらう。

でも、僕はギンペイさんに比べると、どちらかというと“演じる側の目線”が強いので。

良くも悪くも自分をぶつけてみて、反応がもらえればそれでいいみたいな。たとえ酷評されたとしても、それはそれって思ってしまうというか。


 たとえば映画で、2時間観た観客に、何も伝えない、何の快感も与えない作品。
 時間を無駄にしたと心底思うような作品。
 そんな作品を揶揄して、一部の観客はどう言うか知っているだろうか。

『製作者の自慰行為』だよ? (普通はカタカナ表現だ)

 ネット上で目にする類の表現だから、実際口に出すものかは分からないが。

 観客に、観客が割いた時間分の快感を与えようとしていない、作り手が一方的に気持ちよくなっている作品を、こういう風に言うんだよ。
 反応がもらえれば酷評でも構わない、というのは、よりよい反応を得る努力を放棄しているように思える。

 演出がこういう態度を言明するというのは、その態度にメンバーを巻き込むということでもある。
 その恐ろしさ、分かってる?
 分かってるなら、改めて欲しい。
 分かっていないなら、組織内の権力なんて持つもんじゃない。

 そしてもう一つ。
 反応してくれるお客さんというのは、これまでのRadishの実績とか、メンバーの人間関係とか、制作さんの努力とか、そういうものへの『反応』として観に来てくれるんだよ?

「酷評されてもそれはそれ」だって?

 反応があるのは、作品の受け取り手がいるからだ。
 酷評されるような作品だったら、待っているのは受け取り手の消失だよ?

「ああ、あいつの芝居か」でも、「ああ、あの劇団の芝居か」でもいい。
 一度観客に『痛い目』を見せてしまったら、次に続く言葉は「もう観に行きたくはないなぁ」だ。
「反応してもらえれば満足」な人に、未来の観客が食いつぶされる。
 下手をすると、現役メンバーの友人関係もね。

 引用したようなあんな態度は、即刻改めて欲しい。

 もしも本気で、「自分が気持ちよければ、相手の反応なんてどうでもいい」と思っているなら、組織の枠組みなんて使わず、自分一人でやってくれ。

 さて、例のコメント欄で団長が周りにぶつけた「自分」に、私は『怒り』と『あきれ』という評価を抱いた。
 これはまぁ、『酷評』に類するものと考えていいだろう。
「反応がもらえればそれでいい」君は、これにどんな感想を持つのだろうか。

 もしも私が言い過ぎだと思うなら。
 心外だと思うなら。

 頼むから、もっと客の方を向いてくれ。
(ギンペイ)
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波の話
 脚本会議が始まりました。
 昨日の会議で3作品にまで絞り込みが行われ、来週末に決定する模様です。

 今年は、新人が多い。
 去年も多かったのですが、なにせ絶対数が多いです。
 センス無しの素人なりに、4年間の経験を積んだ者として、積極的にアドバイスをしていきたいと思います。
 ウザがられて、追い出されないくらいには。

 演技をするにあたり、私がさんざん言われてきたフレーズがあります。
 一本調子。

一本調子(いっぽん・ぢょうし):
①歌う声に抑揚のないこと、単調。
②単純で変化に乏しいこと。
(広辞苑)


 それはもう、最後まで言われ続けましたよ。

 なんて事を考えていたら、思い出した話があります。

 あれは中学生の頃。
 まだ入学してあまり経たない、美術の時間でした。
 美術の先生は黒髪にメッシュ気味の白髪が混ざったナイスミドルで、生徒が手を動かしている間、いろいろな話をしてくれたものです。

「私は、皆さんの『芸術的センス』に点数をつけることはできません。それは、『芸術的センス』が、見る人、見る時代、見る場所によって、まるで評価の変わってしまうものだからです。」
「ですから私が教え、点数を付けるのは、『表現の技術』です。デッサンの課題なら、どれだけ実際に近いデッサンをできるか、塗り絵の課題(長方形を鉛筆で塗りつぶす課題)なら、どれだけムラのない塗り方ができるか。そういったところを見ます。センスは、別のところで磨いて下さい。」

 小学校までは「自由に描きなさい」とばかり先生に言われ、どうすれば自分の描きたいものが表現できるのか、教えてもらえませんでした。(ついでに言えば『描きたい対象』の洗練の仕方も。)それなのに美術的センスで点数が付けられて、どうも納得のいかないところがありました。
 実は、話題の中学の先生も、あまりテクニック的なところは教えてくれなかったのですけど、『点数の基準は客観的に測り得るもの』というのには納得した覚えがあります。

 そんな先生が話してくれた、『波の話』があります。
 特にメンバーには、ためになるかと思いますので、ちょっと読んでみて下さい。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 私が美大で、期末考査を受けたときに、粘土の課題が出ました。
 テーマは『波』。
 粘土で、波を表現しろというんですね。
 私は、荒れ狂う波を作りました。これでもか、これでもか、というくらいに荒れた海原です。
 これだけ波を表現できれば、評価はさぞ高いだろうと思ってましたよ。
 ところが、評価は並でした。
 駄洒落じゃないですよ。ほらそこ、笑わない。

 残念でした。
 で、めいめいの課題作品は展示されていたので、最優秀となった作品を見てみました。
 いや、驚きましたし、納得しました。
 それ、どんな作品だったと思いますか?

 そこで表現されていた波は、私が作ったものより、ずっとおとなしいものでした。
 なにが凄かったかというと、その作品、「波の起きてない部分」があったんです。
 明鏡止水というか、穏やかな水面と、微かに立ったさざ波が、一つの作品で表現されてたんです。
 彼とは、物の見方が違うんだと思いましたね。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 どうでしょう?

 人によって、思うところがあったり無かったりすると思いますが、表現を考えるとき、思い出してみてください。
(ギンペイ)
ニホンゴはどう難しいのか
 し~け~ん~終わったああ!!

ミ「おつかれさん。何教科あったんだ?」

 2教科。

ミ「……。前回の記事は、多少の反響(というか反応というか)があったみたいだな。」

 あったよ。
「びっくりするほど非常にまともな内容の記事ですね(笑)」だってさ。
 これじゃあまるで、普段の記事がまともじゃないみたいじゃないか。
 ほらこんなにまともな記事が……記事が……。

ミ「去年の12月のログまで漁って調べたみたいだが、胸を張って『まともだ!!』と言い切れる記事はあったか?」

 なかった……。

ミ「現実はかくも残酷なものよな。」

 で、もう一つ。別の読者さんからの反応。
「辞書にのってりゃ『正しい』のか。言葉は変化するものだろう。」と。

ミ「尤もだな。」

 尤もだ。
 まあ、難しいことを考えてしまえば「正しさ」を規定するのがどんなに大変か。
 では、持論を展開してみようか。

ミ「また読者が逃げるぞ。」

 すんません、堅苦しい議論が嫌いな人は、今日の記事からは逃げて下さい。
 そんなに高度なことが書けるわけじゃありませんけど。

 言葉の世界における辞書っていうのは、社会における法律に喩えることができる。なんらかの権威主体(法なら国会、辞書なら日本語学会?)があって、生活のためのルールを決めている。これは当然人為的なものであって、全ての主観にとって「完全に正しい」なんていうことはあり得ない。ただ権威主体が「『これこれ』を『正しいと規定する』」っていうだけの話であって。
 ただし、これは法や辞書が無意味・無力であることとイコールではない。法を完全に遵守してるひとは少ないかもしれないけど、完全に無視している人だって滅多にいるもんじゃない。
 例えば。

「信号が赤の時に横断歩道をわたるのは、道路交通法違反。でも、車がまるで通っていなければ、そのくらいいいじゃないか。」

 というのを、日本語の問題に置き換えてみる。

「助詞『れる』ないし『られる』を使って可能を表現するには、五段活用動詞の場合を除き、『られる』を使うのが、辞書的には正しい。でも、『れる』の方が可能の意味が明確になるし、基本的に『れる』でいいじゃないか。」


ミ「……分かりづらいな。」

 要するに「『ら抜き言葉』でいーじゃん。実はそっちの方が便利だったりするんだぜ?」と読んでくれればいいや。

ミ「便利なのか。」

 便利だよ。詳しくは説明しないけど、『ら抜き』の方が意味の混同が起きにくくなってる。「今は認められていないが、『ら抜き言葉』は進化の結果生まれた言葉だ」って、ばっちゃ中学時代の国語の先生も言ってた。
 このとおり、辞書的な正しさの普遍性は、確かに微妙。「犬も歩けば棒にあたる」なんて、棒は元来「災難」の意味だったのが、誤りから転じて「幸福」も示すようになったくらいだし。「あたる」の語感が幸せそうなことから、だってさ。(つまり、良い意味でも悪い意味でも使える様になった。)
 逆に悪い意味を持つように変化したのは「お仕着せ」だな。
 もともとは江戸時代の商家で、奉公人に与えるボーナスみたいな着物が「お仕着せの衣装」だったのに、「おし」が「押し売り」みたいな語感を想像させるせいで「型通りに押し付けられたもの」っていう悪い意味になったらしいよ。平成教育委員会で言ってた。

 ちょっと脱線したな。
 じゃあ今度は、法と辞書が確実に力を持つ場合を考えよう。

「司法によって拘束されている人間が、情状酌量の余地のない状況で故意に殺人を犯したならば、懲役等の罰則が下される。」

ミ「重いな。」

 ごめん。法律は専門じゃないから、「絶対に適用される場合」の上手い例えがみつからなかった。
 次は言葉の例。こっちは軽いよ。

「『UFOを踏みつける』という表現をした場合、世間一般では、『主役を演じる』ことを表さない。」

「なんだこれは。」

 当たり前だろう?

「当たり前だ!」

 法や辞書は、こういう当たり前のことを規定してくれてる側面もあるわけよ。
 そして、複数の主観が食い違い、紛争(もめごと)が起きた時には、ルールという『特別な主観』が、とりあえずの指針を示してくれる。
 お互いにルールを守っていればもめごとは減るだろうし、こちらがルールを守っていれば、もめた時に権威や権力が自分を守ってくれる可能性が高まる。

 で、次の問題が、それらのルールを遵守してさえいれば、もめごとは起きないかということ。
 答えは否。断じて否。
 具体例は面倒だから挙げないけど、世の中には「法整備の不備」だの「法律の抜け穴」だのと嘆かれてる事例が山のようにある。法を守っているからといって、社会的に正しいとは限らない。
 言葉にも同じことが起きる。
 良い例が今回の「どくせんじょう」の話であり、もっと言うなら、人の『誤り』に文句を付けることだって「正しさにこだわってよけいにもめる」ケースだ。
 ルール(辞書的正しさ)を『振りかざす』ことが社会的に好まれるとも限らないし(法や正義を「振りかざす」って、そもそも否定的な意味でしか使われないし)、一般に使われていない「正しい」言葉を使ったら、「それ、間違いじゃないか」と指摘される危険すらある。「正しい意味」で、呆然としてる人を「憮然」と形容したりしたら、「憮然」って言葉を知ってる人の大部分は「誤り」だと感じると思うね。

 で、言葉に関する私の行動指針はどうなのかというと。
 感情的な問題として、「誤り」と知っている言葉は使わない。気持ち悪い。車が通っていなかろうと何だろうと、信号付きの横断歩道なら青信号でわたろうよ、というような主義。(実際の横断歩道では、車が来てなきゃ渡ります。)
 そして、感情的な問題に加えて功利的な問題として、周りに「誤り」と見なされそうな言葉は、辞書的に「正し」かろうと避けておこうとも考えてる。特にブログや脚本のような、表現者として一対多で臨まなければならないステージでは。
 一対一で話してるなら「それ間違いでしょ?」「いやこれでいいんだよ」と言える場合もあるでしょうし、そもそも問題にすらならないことが多いんでしょうけど、一対多だと「あいつ間違ってるな。」と一方的に思われて終わりという危険が、あまりにも大きすぎます。

 辞書的ルールの逸脱に関しても、一対多のときにはより気をつけるというのは変わりません。上と同じ理屈です。
 こうして私は、前回の記事の結論にたどり着く訳です。

 あまりにも誤用が定着した「間違った日本語」を避けるためには、「正しい表現」をこころがけるのではなく、表現自体を避けなくてはいけないのですね。辛いです。

 ガッテンしていただけたでしょうか?
(ギンペイ)
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